「教師」について

2001年9月9日
部屋の片付けを午前中に終えた後,仕事と参考文献を読み進める一日。

吐き気がしたニュース。
中国自動車道で手錠をはめられたまま死んだ女子中学生を連れていた犯人が中学教諭だと。
元々学校の教師と言う輩が嫌いなこともあり,ひどい嫌悪感。
自分の授業の進行方法に行き詰まっていただと?
学校と言う狭い社会の中にいて,「圧力の中で自分なりのやり方を導き出す」ことを避けてきた報いだろうに。

社会性ゼロのくせに理想主義のみ唱え,自分の現実感のなさを認識すらしていない奴ら。
数少ない,共感した教師は二人だけ。
一人は某製薬会社勤務の後に「自分の研究にお金はかからないから時間がほしいのが教師になった理由」と公言していた化学の教師と,サッカー部の顧問で当時神奈川県に2人だけの国際審判の資格を持ちJリーグの審判をこなしていた体育教師。
社会人経験のない人間に,教師など。

そういえば中高を通じて嫌悪していた同級生は,中学教師になったっけ。彼なら将来ああいう事件を起こすかも。3年前に久し振りに会った時に,目を輝かせて「教師」と言う職業のやりがいについて頼みもしないのに語ってきたっけ。
自分の仕事について批判的な視点を持つことのない人間に良い仕事ができる筈もないし,今まで出会った「教師」でそうした視点を持つ人は殆どいなかった。
生徒に簡単に論破される程度の理想論を振りかざす「教師」は嫌ほどのさばっていたけど。
生徒としては,その現実に早く気付くことにより幻滅することも避けられるし,日常生活の中で別の価値あるものを見つけることもできるはず。

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